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生殖の新たな定義「過栄養の排泄」(その3:体内受精そして胎生へ)

このページは、 その2:多細胞化とオス・メスの誕生 の続きです。

多細胞動物の上陸と体内受精
 オス・メスに分化した多細胞動物は海洋全域で大繁栄し、海縁で暮らす動物たちは、各個体が過栄養の状態になると、大潮の水圧に反応し、その時期の到来でもって卵子・精子の排泄を同時的かつ集中的に行なうようになったことであろう。
 そして、さらに時代が進むと、植物の後を追って、ついに動物も上陸を果たした。これは、好き好んで陸に上がったのではなく、干潟に取り残された者たちが、その干潟もだんだん乾燥化して無理やり陸揚げされたのである。
 なお、現生する魚類の大半(サメ・エイの仲間の軟骨魚類を除く)も干潟でのた打ち回った魚たちの子孫である。なぜならば、彼らは硬骨魚類であり、軟骨が硬骨に変化するには、地球の重力をもろに受ける陸での生活を経験せねばならないからである。これに関しては、西原克成氏がその著「生物は重力が進化させた」の中で、サメの陸揚げ実験によって実証されている。
 こうした干潟での生活にあっては、過栄養の排泄はどれだけかの水溜りでもなされたであろうから、海生動物と何ら変わることなく卵子・精子の排泄そして両者の合体が自然と行なわれたであろうし、両生類においてもしかりである。

 それに対して、完全な陸生となった爬虫類となると、大変革を迫られたのである。
 第1に、メスは水中に卵子を放出できなくなって、オスの精子を体内に受け入れねばならなくなったのであり、第2に、受精卵を体内である程度成長させ、卵殻を纏わせてから産み落とさねばならなくなったのである。
 通常、このように表現されるが、これは目的論の落とし穴にはまった理解の仕方である。
 オスの射精と同様に、メスの場合も、排卵は“単なる過栄養の排泄”であるのだから、魚類と同様に丸裸の卵子を地上へ放出すればよいのであって、わざわざ体内で育てねばならない理由はどこにもないのである。
 
 でも、そうされると困る者が出てくる。単に放出され、その後で精子と合体した受精卵である。
 たとえ日陰であっても水がなければ干乾びて死んでしまうのであり、大半がそうした運命にあったであろう。
 しかし、わずかの者が生き残って成熟することができた。そうした繰り返しの中から、卵子に新たな生命記憶が刻み込まれる。“この世は乾燥地獄である”と。
 そこで、母体が卵子を放出しようとしても、卵子は生命記憶を元に乾燥地獄へ放り出されまいとして踏み止まろうとしたのであろう。そして、これを成功させるものが出てきた。
 オスは、卵子を放出しようとするメスが発するフェロモンに引かれてメスに接近するものの、母体が卵子をいつまで経っても放出しないのにしびれを切らし、排卵前に、フェロモンを濃厚に発するメスの排卵口に射精してしまったのである。(フェロモンの働きについては、母子間も含めて、フェロモン仮説=男と女はなぜに惹かれあうのか を参照されたい。)
 このようにして誕生した受精卵は、母体の中で急激な細胞分裂を開始し、なお母体に踏み止まろうとする。更にその生き物は、母体の体液からカルシウムなどを横取りして卵殻を纏い、乾燥地獄に耐えられる体に成長してから、やっと産み落とされるようになったのである。
 なお、魚類にあっても、大きな卵子(イクラ)を放出するサケなどの場合は、卵子が貧栄養の環境に放り出されまいとして母体に踏み止まって栄養を溜め込み、大きな体へと成長を果たしたと考えて良いであろう。

 卵子が母体の中で大きく成長したり、卵殻を纏ったりするようになったのは、卵子なり受精卵という生き物が、その生命記憶でもって、過酷な環境でも何とかして生きていこうとして必至にもがいた結果、そうなったのであって、母体が何らかの手助けをしたなどということは一切ないばかりか、母体は少しでも早く「過栄養の排泄」をしたいだけである、と断言できよう。
 母体のこのことについては、次節の胎生動物における母子間の葛藤で説明することとする。

胎生=哺乳類の発生
 哺乳類という胎生動物の発生もこれに類似している。
 哺乳類が誕生した時期は地球に寒冷化が襲ったときである。爬虫類と同様に卵殻を纏って生まれ出ていたであろうが、高度に進化した鳥類のように両親が心優しく抱卵してくれることは決してなかった。原始哺乳類は、実に水臭い親であったのである。
 よって、かかる低温状態の下では、産み落とされた卵は孵化できず、凍死してしまう。多くがそうなったであろうが、ここでもわずかな者が生き残って成熟することができた。
 そうした繰り返しの中から、卵殻をまとった卵に新たな生命記憶が刻み込まれる。
 “この世は凍死地獄である”と。
 そこで、母体の中で育った生き物は、卵殻を纏っては排泄されてしまうから、これを脱ぎ捨てると同時にガブリと母体にかぶりついたのである。
 胎児は、まさに“吸血鬼ドラキュラ”に変身したのである。
 そんな馬鹿な話があるかと、お疑いの方が多いでしょうが、西原克成氏が先の著の中で哺乳類の発生について次のように述べておられる。その要旨を紹介しよう。

 …卵殻が血管を誘導して胎盤ができあがるのは、アンコウ(鍋物にすると美味な深海魚)のオス(小指ほどの大きさ)が、体が大きなメスの腹にがぶりと噛み付き、やがてオスの歯が溶けてメスの皮膚に血管を誘導し、オスはメスに寄生する形で存在しているのと、仕組みは全く同じである。哺乳類型の爬虫類にあっては、アパタイト化(編者注:アパタイト=硬骨と同質)していたであろう卵殻を持った卵が何らかの環境激変で産卵の引き金が引かれなくなって卵が停滞すれば、卵殻が溶けて血管を誘導し、胎盤ができてしまうのであり、卵生から胎生に変化するのは、いともたやすいことである。…

 こうして、卵殻を捨てて胎生に変化した生き物は、寄生虫となって血液を栄養としつつ、胎内で成長を続けたのである。
 そして、腹の中が窮屈になり過ぎて出ざるを得なくなり、ほぼ成体と同じ形で生まれ出ることになったのである。
 ところで、吸血鬼を腹に住まわせられたメスはどうしたであろうか。自分が摂取した栄養が横取りされるだけでなく、胎児が自らの骨格を作るために自分の骨は溶かされてしまうし、成長が進むとともに内蔵を圧迫するようにもなる。母体にとって不利なことばかりである。一刻も早く、この寄生虫を追い出したいことであろう。
 ヒトの母子間のこうした関係について、エレイン・モーガン女史はその著「子宮の中のエイリアン」の中で、ハーバード大学のデビッド・ヘイグの主張として「妊娠に合併して起こるトラブルの幾つかは、生物学的レベルでの母子間の葛藤であると捉えれば説明が付く。」と紹介し、また、次のように言っておられる。

 …妊娠の維持に働いているただ一つの物質がプロゲステロンというホルモンであり、母親がこれを出すのであるが、胎児は受精後6週間経つと自分の力でこのホルモンの分泌を促すことができるようになり、流産という母親の拒否権を封じてしまう。…

 こうして、長期間、胎児として子宮の中で暮らした赤ちゃんが、出生後に授乳をするようになったのはどうしてか、という疑問も簡単に解消する。
 消化器官が未熟な状態でやむなく生まれ出てきた赤ちゃんは、親と同じ食事ができるわけではないので、出生後も引き続き吸血鬼として母親の腹にガブリと噛み付けばよいのである。これが乳首となったのである。

 こうした吸血鬼であり、エイリアンであり、また、寄生虫でもあった生き物を、誕生後において、なぜ母親がすすんで世話をするようになったのだろうか。母親は痛さを我慢しつつ血を吸わせたのであるが、これも何も不思議なことではなく、自然とそうさせられただけのことである。
 赤ちゃんの皮膚そして尿から、その赤ちゃんに特有のフェロモンが発せられ続ける。母親にとってそのフェロモンは自分のものと極めて類似した匂いであり、この寄生虫は自分の体から出てきた生き物であるからして、「自分=寄生虫」であると、異個体を同一化した「対称性の思考」のもとに行動できるからである。
 つまり、この寄生虫は自分であると同時に、自分もまた寄生虫であると思考するのである。
 我々ヒトは視覚に全てを頼る傾向にあり、この寄生虫を姿形で判断し、気持ち悪い生き物と感じてしまうのであって、実際、小生の妻に第1子が生まれたとき、我が娘には申し訳ないが、ちっちゃな“しわくちゃババア”にしか見えず、まさに気持ち悪い寄生虫が外界に現れ出たとしか思えなかったのである。しかし、哺乳類は一般に夜行性であり、視覚は補助の補助として使っているだけで、嗅覚を主力にして判断するから、どんな姿であっても決して醜いなどとは感じず、そのフェロモン匂から、赤ちゃんを自分の分身として、何の疑いもなく「対称性の思考」を働かせられるのである。なお、フェロモン匂の感知は脳の無意識の領域でなされる。

 「対称性の思考」という言葉は、多くの方に馴染みのないものであろうが、これは中沢新一氏がその著「対称性人類学」の中で使われており、本稿でその言葉を借用させていただいた。
 この言葉の定義はなされていないが、「脳の無意識の領域で、異個体・異質なものを同質のもの(=対称的)であると情動的・直感的に捉える、高次元的な思考」と解してよさそうで、無意識の世界での思考が捉えたものが、場合によっては意識の世界に翻訳されて、意識的行動をさせてしまうこともあると思ってよいであろう。
 なお、この「対称性の思考」は、人の場合、何も母子間に止まらず、様々な形で数多く存在することが分かっており、男でも取り得る思考方法である。例えば、狩人と獲物の間にこれが存在することがあり、多くの民族において神話や伝説の形をとって、人と動物の入れ替わりが語り継がれているのであり、また、これは仏教の教えの中にもある。
 これだけの説明では、読者の皆様に「対称性の思考」というものをとうてい理解していただけそうにないが、詳細説明は別の機会に譲らせていただくことでご勘弁いただきたい。
 
 そこで、人以外にもこうした思考が存在するかということになるが、これは近代よりも古代に濃厚に存在していることから、原初的思考方法であると言えるし、また、ヒトが哺乳類の中で突出して思考力が高いわけでもないのであるから、「対称性の思考」というものは全ての哺乳類に存在すると考えてよいと、小生は思うのである。
 こうしたことからも、哺乳類全般に、母親は自分の赤ちゃんを決して放置したり殺したりしないのであり、ひたすら赤ちゃんを慈しみ、片時も手放さないのである。

 さて、吸血鬼であり、エイリアンであり、また、寄生虫でもあった赤ちゃんは、出生に当たって、その余りにも異質で異様な空間に放り出されたことにより、殺されるのではないかと一時恐怖心を持ったであろうが、過保護ともいえる巨大な生き物(これが母親との認識はまだない)の存在を知り、その幸運を大いに堪能したことであろう。
 その赤ちゃんが言葉を発することができたとしたら、初乳を飲むときにこう言うであろう。
 “外界においても吸血鬼で在り続けられる。ありがたい。”と。

 このようにして、哺乳類のメスは、寄生虫がために体の造りまで大変革を余儀なくされ、身を削らねばならない生き物にさせられた上に、子宮の中のエイリアンを排泄した後にあっても、吸血鬼を長期間にわたって世話させられるという、まことに哀れな存在である。オスである小生にはそのようにしか思えない。
 一方のオスといえば、過栄養の排泄に関する器官は魚類いやそれ以前の下等動物と何ら変わらぬ形質を維持するだけで済み、過栄養が生じたら単に精子を作り続け、それをやたらと放出するだけの安楽な存在として在り続けられたのである。

ペニスに存在意義はあるか
 哺乳類のオスが過栄養の排泄器官づくりで新たに行なったことといえば、特段に必要としないペニスを全ての種のオスが持ったことぐらいである。
 さて、そのペニスの起源は何であろうか。爬虫類の一部がこれを持っているが爬虫類の中でも原始的な形質を残している種に限られる。哺乳類は爬虫類を起源とするであろうから、その爬虫類の原始的なものの形質を引き継いだと考えてよかろう。
 では、原始的な爬虫類がなぜにペニスを持ったのか。いくら調べてもどこにもない。いくら考えても小生の脳裏に浮かんでこない。完全にギブアップである。
 “神が与えたもうた。そして悲劇を生んだ。” 破れかぶれにこうとでも叫ぶしかない。

 なお、脊椎動物のうち最も原始的な形質を残しているのが哺乳類であり、つまり最も進化していない生き物である。手を鳥のように翼に変えたわけでもなく、魚のように足をペラペラのヒレに変えたわけでもない。付け加えて言えば、哺乳類の中で最も原始的な形質を残しているのが霊長類である。ウマのように指をヒズメに変えたりしていないし、シカの角のような芸術作品をおでこに飾るものでもない。その霊長類の中で原始性の最右翼がヒトである。小生のような短足胴長な体型の者が四つん這いになれば、その骨格は原始哺乳類の姿に最も近付くのである。
 極端な言い方をすれば、ヒトは脊椎動物の生きた化石なのであり、魚類のシーラカンス以上に標本としての価値がある存在であって、多くの動物がどんどん進化していく中で、大きく取り残された惨めな姿の生き物なのである。逆に、その原始性がゆえにたくましさがあり、今日、哺乳類が大繁栄し、その中でヒトが異常増殖しているとも言える。
 ここまで言い切ると大袈裟すぎるが、ヒトの原始性は「幼形成熟(ネオテニー現象)」つまり、生まれ出た幼い姿のままで成体になってしまうという極めて特異的な成長の仕方をするからであって、これは、人類が水生環境で進化したとする人類水生進化説で説明が付くと、小生は思っている。
人類水生進化説第2章 の終わりの方に出てくる 「4 大きな頭の不思議」 を参照されたい。)

 さて、なぜだか分からないがペニスを持ち備えた哺乳類であるがゆえに、オスはオス性を極端に高めざるを得なくなった。
 魚類の一般的な生殖行動は、排卵間近なメスが発するフェロモンに引かれて、多くのオスが仲良く付いて回り、メスの排卵(高濃度のフェロモンの放出)を察知したところで、その刺激でもって一斉に射精するのである。これには例外もあって、種によっては、1匹のメスを独占すべく、他のオスを蹴散らす“悪”もいることはいる。
 ところが、ペニスを持った哺乳類となると、魚類一般のようにオス同士が仲良くとは参らなくなった。魚類の例外の“悪”の方法を取るしか選択肢がないのである。なお、爬虫類の一部も同様であるが、進化したものはペニスを持たず、生殖口をピタッと併せて瞬間的に精子を受け渡すのであるから、アッという間に済んでしまい、先んずれば制すであって、メスの了解が得られさえすればよいから、オス同士が争っていると、だれかに漁夫の利を得られてしまい、争いは無意味となる。よって、一般に平穏な社会を形成している。これにも例外は当然あり、ヘビは長時間オス・メスが絡み合って交尾する。
 なお、哺乳類にあっても、種によっては、オスがペニスをメスの膣に挿入後、アッという間に射精してしまってオス間の争いが少ないものもあるが、これは少数派である。
 哺乳類一般に、交尾は少なくとも数秒ないし十数秒を要するし、分単位のものも多い。こうなると、オスは一定時間メスを独占せねばならないから、必然的にオス間の争いが生ずるのである。加えて、メスの発情時期には、オスは1日に何回も、種によっては何十回も射精が可能で、それがために発情したメスを独占し続けようとするからオス間の争いが必然的に激化する。
 加えて、哺乳類にあっては、交尾している間、オス・メスともに、少なくともオスは、何物にも代え難い至福の一時を堪能することができるのであるから、もうどうしようもないのである。ペニスの先端部と膣のGスポッにそれぞれ存在する鋭敏な神経細胞群がそうさせてしまう。これは、哺乳類に共通する、哺乳類にしか味わえない特有の快感であるに違いない。
 こうして、性欲の虜になってしまったのが哺乳類であり、それぞれの個体にとっては極楽であるものの、その社会は地獄と化す、悲しい性(さが)の持ち主、それが哺乳類である。

 オスにとって、ペニスの摩擦刺激は快楽に違いないが、オルガスムは射精によって初めて生ずる。精液がビュッとほとばしるときであるが、これは、精液が輸精管の壁面を摩擦し、輸精管の神経細胞の興奮によって生ずるのであろう。よって、哺乳類のオスであろうと魚類のオスであろうと、その感覚に違いはなかろう。
 また、この過栄養の排泄時の感覚は、不要物の排泄時の感覚と類似している。ヒトも、大便であれ小便であれ、それが溜まりに溜まった場合には、その排泄時に無上の快感を味わい、それが終わった段には心地好い虚脱感が襲う。排便の快感は直腸の壁面摩擦によるものであり、排尿の快感は尿管の壁面摩擦によるものであって、いずれも神経細胞が興奮することによって生ずるものである。
 一方のメスにとって、爬虫類や哺乳類の場合、過栄養の排泄は、産卵や出産であり、それは、極度の便秘症状が解消したときの感覚と類似したものではなかろうか。不謹慎な言い方ではあるが、排泄行為に変わりはないのであり、生理学上では、オスのオルガスムに相当するのが、メスでは産卵や出産そのものであるということになるのである。卵が輸卵管を、胎児が産道を擦って出てくるときの、それぞれの壁面摩擦による神経細胞の興奮が、オルガスムに相当することになるからである。

 さて、そこで問題になるのが、爬虫類や哺乳類においては、魚類の両性が経験する本来のオルガスムの同時性が失われたことである。
 奇異なのは、ペニスを持たない一般的な爬虫類は、精子の受け渡しのとき、オスはオルガスムを味わえても、メスは快感を味わうことはできないであろう。でも、確実に精子を受け入れる。生殖口をピタッと合わせさせる衝動というものが、どのような仕組みで生ずるのか。全くもって分からない、まさに神技としか言いようがない、進化した動物のなせる技である。
 それに比べて、哺乳類は単純な仕組みである。オスがメスの膣にペニスを挿入し、単にピストン運動をするだけで、メスに“擬似”オルガスムを生じさせ得るからである。両性の接近もフェロモンが誘導してくれるし、膣とペニスから濃厚なフェロモンが発せられるから、間違いなく自然にドッキングできる。ペニスが膣に入れられただけで、もう摩擦刺激が生じ、両性が直ぐに快楽を感じるから、必然的にピストン運動に移行し、やがて膣のGスポットの神経細胞が励起して膣の筋肉が収縮し、ペニスが絞め付けられれば、両性が同時にオルガスムの快悦に浸れるのである。
 これがヒト以外の哺乳類にいえることであるが、なぜかヒトには当てはまらない。ヒトのメスは発情しないし、膣のGスポットが反応することはまれである。またまた不思議な動物、ヒトであるのだが、これも水生進化のいたずらでそうなったと思われる。このことについては 人類水生進化説第5章 を参照されたい。

 ここまで3回シリーズで“生殖の新たな定義「過栄養の排泄」”について長々と小生の思いを綴ってまいりましたが、読者の皆様には最後までお付き合いいただき、感謝申し上げます。
 ところで、本稿の中で何度も「目的論」の排除に言及したところですが、そういう小生も知らず知らず「目的論」にはまってしまっている部分があるかもしれません。その点ご容赦ください。
 なお、「目的論」の排除は非常に重要なことでして、人類水生進化説を著したエレイン・モーガン女史も「目的論の落とし穴にはまってはならない」と述べておられますし、このことについては、全ての自然科学に当てはまるとして、本稿の中で何度も登場する西原克成氏がその著「健康は『呼吸』で決まる」の中で次のように述べておられますので、それを最後に紹介し、本稿を閉じることとします。

…昔から、進化と免疫と骨髄造血は、脊椎動物の3つの謎として、なかなか解明できない問題でした。3つの謎の中で免疫は最も盛んに研究されてきた領域ですが、それが根本で大きな誤りを犯していたのです。筆者は一連の研究でその誤りを明らかにすることができました。これによって、「治る免疫学」が完成したのです。
 前に述べたように、自己・非自己の免疫学は、実験そのものに誤りがあるわけではないのですが、根本的な考え方が誤っていたのです。それは、主要組織適合抗原が自己と非自己を見分けるために存在するという点です。このように擬人化した考え方を「目的論」といいます。これは、世の中のすべてのことをうまく運営するために神様が手を下しているという、西洋の根本思想です。自然科学としての医学、生命科学から「目的論」を排除しない限り、「治る免疫学」は生まれません。(中略)
 今の医学者と生命科学者に求められているのは、自然科学の世界から、アリストテレス時代の目的論と擬人化をそのまま受け継いだキリスト教文化の自然神学に基づいた科学思想を排除することです。この目的論は、ヨーロッパにおける2000年のキリスト教に基礎を置く自然神学の立場で科学するというものです。日本人には考えられないことですが、ガリレオもニュートンもコペルニクスもダーウィンも自然神学に基づいて科学したのです。アインシュタインはユダヤ教の人格神に基づいて科学したのです。
 西洋人は、こういう自然神学思想からなかなか脱却できないのに対し、日本人は容易に脱却できるはずです。この観点からも21世紀には、ライフサイエンスで日本人が指導的な立場に立つことができるはずです。20世紀はキリスト教文明が世界を支配した最終段階の混迷の(神々のたそがれの)時代でしたが、21世紀にはわれわれ日本人の手で、新しい生命観を樹立し、混迷から脱却しなければなりません。…
                                                

(注)本稿は青少年育成上ふさわしくない表現が含まれますのでアダルトサイトでの投稿としました。



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