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目的論の落とし穴=子孫を残す(その2)

 目的論の落とし穴=子孫を残す(その1)において、目的論の否定と認識論からして、いわゆる「生物進化」というものは否定せざるを得ないものとして論じた。
 そんなバカな、と思われるだろう。例えば脳だ。
 世間一般常識、そして学者においても、生物のなかで最も脳が進化したのはヒトだと信じて疑わない。ヒトの脳はチンパンジーの脳よりその容積が3倍はあろうし、チンパンジーの学習能力はせいぜいヒトの5歳ぐらいまでしかないではないかと。
 このどちらも誤りである。
 脳容積はヒトよりゾウやクジラのほうが圧倒的に大きい。これは、単なるウドの大木であり、ヒトもそうだ。脳の大小で頭脳の良し悪しは語れないのである。
 一方、極小の脳、例えばシロアリ。彼らにどれほどの脳味噌があるのだろうか。
 でも、巨大なアリ塚を正確に南向きに作るし、100万都市の高層建築を見事なまでに作り上げ、働きアリの一群が空調管理を行い、新鮮な空気を送り込み、温度も一定に保っている。
 シロアリだって、最初からこんなことができたわけがない。今でもお粗末な巣穴しか作れないアリが幾らでもいる。彼らだって初めはおんぼろな安アパート程度のアリ塚づくりからスタートしたであろう。それが彼らの技術革新能力で、あそこまで見事な未来都市とも言える複雑な建造物を作り上げるようになったのであるし、その建築技法も記憶しているのである。
 その記憶容量たるや、ものすごいものではなかろうか。ヒトの世界には職人技というものがあり、その技能を備えたヒトを匠と称するが、シロアリ軍団だって、幾つもに役割分担されているようだが、皆、匠であり、ヒトのほうが劣るかもしれないのである。
 昆虫は昆虫で別の方向に極度に進化した動物だから、もう一方の方向に進化した哺乳類と同列には語れないという逃げをなさる方があろうが、ヒトとチンパンジーを比べてみて、どれだけの能力差があるか。
 ヒトだって文明から隔絶された民族は文字を持たないし、算数だってろくにできない。数を数えるにも、“1、2、たくさん”で終わってしまう民族もいると聞く。彼らにはこれで十分であり、これで不自由しないからであろう。
 よって、チンパンジーにも幼少の頃から、ヒトと同じようなスパルタ教育を彼らに合った形で推し進めれば、ヒトと違わぬ頭脳を持つに至るであろう。しかし、彼らは、そんなことをしなくったって不自由なく生きていけるから、馬鹿げた知識学習をしないだけであると言えよう。
 特殊なチンパンジーの集団、それはオランダのアーネム動物園で放し飼いにされた20数頭のチンパンジーであるが、数年にわたってじっくり観察した記録が「政治をするサル」という本(平凡社ライブラリー)に書かれている。通常のチンパンジーの群は、オスは出自集団に一生とどまるのだが、この動物園は、1頭、あるいは2、3頭ずつ出自の異なる群から集められたものだから、大変なことになる。3頭の大人オスが突然一つの集団に放り込まれ、通常では有り得ない24時間敵対せざるを得ない状態に置かされ、この集団で生き残るにはボスの座を早急に射止めるしかなく、オス同士で赤裸々な権力闘争を繰り広げるのである。その権力闘争は壮大なドラマであり、戦後間もなくの吉田政権誕生前後に繰り広げられた、政党・派閥の野合や、足の引っ張り合いに酷似した駆け引きが、実に見事に展開される。彼らは決して行き当たりばったりの戦術を取るのではなく、先を見た戦略的布石を打ち、政敵に同調するメスグループの分断を画策しつつ、オス同士の野合と連合によって、ボスの座を仕留めたり、はたまた転落させたりと、高度な知恵を働かせ、大人オス全員が一度は政権の座を掌中にする。しかし、権力闘争は引き続き激烈に展開され、最後には野合した2頭の大人オスによって他の1頭が食い殺され、放し飼いは中止された。
 この観察記録を読んで感じたのは、彼ら大人オスは文明社会の現代人と同様に毎日考えに考え、その頭脳はヒトと何ら変わりないと思えてしかたない。言葉を持たなくても、ヒトと同じ思考能力を持っていると言わざるを得ないのである。

 文明社会の現代人はあれこれ考えすぎる。幼少からの毎日の教育でそのような生活習慣が知らず知らず身についてしまっているから、それが普通だと思ってしまっている。しかし、考えすぎるから迷路に入り込み、とんでもない所に抜け道を見つけて、これが正解だと早とちりすることが往々にしてある。
 これが自然科学の学問分野において顕著なものとなる。
 我々は生活する上において、毎日のようにあれこれ考えるのだが、なんとも解決策が見つからないときには原点に立ち返って冷静に判断しようとする。自然科学の学問分野においては、これがより求められる。学問は積み重ねであるからして、どこかの段階で間違いがあればその先は意味がないものになってしまうし、途中でもう1箇所間違いが追加されれば、その先はあきれてものが言えないトンチンカンな議論しかできなくなるのである。

 随分と前置きが長くなってしまったが、これより本題の「目的論の落とし穴=子孫を残す」について論ずることにする。
 まずは、「子孫を残す」ために行為について様々な誤解を解いておかねばならぬ。
 ヒトの場合、男と女がセックスし、これを繰り返していれば、いつかは種付けが行われ、やがて子が生まれることは、通常、大人になれば誰もが知っている。しかし、こんなことを知っているのは哺乳類ではヒトだけであり、それも誰かに教育されてはじめて知るだけのことであって、他の哺乳動物はこのことを全く知らないでいる。
 また、セックスと言う行為そのものも学習によらなければ知りえない種もいる。ヒトが正しくそうだが、チンパンジーのオスだって幼少の頃から他の個体と切り離されて独りぼっちで育てられた場合には、大人になってセックスを知っている大人メスとつがいにされてもセックスのやり方を知らず、メスが発情して近づいてきても、おたおたしているだけで何もできないでいるという観察例がある。
 こうしたことは例外的なものではあるかもしれないが、セックスという行為は単にセックスを両性が互いに楽しむだけで完結してしまい、そのずっと先に大人メスから子が生まれることとは全く別物であって、セックスと出産とを関連付けできている種は、少なくともヒト以外の哺乳類にはいないと断言できる。
 つまり、オスが種蒔きしてメスをはらませ、両性間の「子孫を残そう」などという考えは、ヒトを除いて哺乳類のどの種もゆめゆめ持ち合わせていないのである。彼らの子孫という概念は、単にメスが大人になったら自然と定期的に出産を繰り返し、シングルマザーによる種の再生産が行われるとしか捉えていないのである。
 ヒト以外の哺乳類は大なり小なりフェロモンの作用によって血縁の強弱を感知するし、血縁関係にないオス・メスが強く惹かれあったりするのである。そして、血縁関係にないメスが発情して強烈にフェロモンを発し、オスがひとたびその匂を嗅ごうものなら、いたたまれなくなって、どうしようもなくメスとの濃密な接触をしたくなってしまうのである。なお、フェロモンは化学物質であり、無意識の世界を司る原始的な脳「視床下部」のみを興奮させ、意識の世界を興奮させる通常の臭気はフェロモンとは別の嗅覚器官によって感知され、別系統の神経系で最終的に大脳皮質まで伝わる。
 ところで、ヒトはフェロモンを発する器官が随分と縮小している上に、感知する器官ともなると痕跡を止める程度に退化してしまっている。そうしたことから、どれが原因でどれが結果かは定かでないが、ヒトの大人メスが発情することもなくなってしまったのである。何とも情けない身体障害者、それはヒト、といったところだ。
 ついでながら、ヒトは理性的だからサルとは違って感情を抑える能力がある、などと言われはするが、サルだってボスザルが強い力を持っていれば、他のオスザルは発情メスに接近したくてどうしようもない状態にあっても必死になってそれをこらえるのである。彼らにだって感情を抑える理性はちゃんとあるのであり、その理性力といったらヒトの想像を絶するものすごいものであろう。なんせフェロモンで狂わせられた、例えはよくないがヒトの場合にあっては麻薬で狂わせられた、そうした脳でありながら、理性を失わないのであるからして。
 ヒトは自分たちの種が皆、フェロモン喪失という身体障害者であることをつゆとも思わないから、男女の交わりについてもおかしなことを言い出すのであって、本質を見誤ってしまっているのである。

 「子孫を残す」つまり子に止まらず孫を残すということに強く固執するのは、文明後のヒト社会に特有のものである。それは財産の私有とその相続に密接に関係している。
 文明から隔絶された採集狩猟民にあっては、財産らしきものがあってもそれは一族の共有であって、これといった私有財産を有せず暮らしている。当然に貨幣もない。こうした世界においては、大人の男は気に入った女とセックスしたい気持ちは文明人以上のものがあろうが、自分が種付けして生まれた子に相続させる財産というものがないから、我が子に対していたって無頓着である。我が子が幼少ならば母親なり周りの女たちが協力して育ててくれるし、物心が付けば年長の子供が遊び相手になり、より年長の子供なり青年が教育係を勤めてくれるから、自分がしゃしゃり出て立派な大人にしなきゃという考えは湧いてこないのである。大人の男がやることといったら、男子青年を大人の仲間入りさせるために、大人の男が共同して彼らに何かの試練を与えることぐらいなものであり、我が子と分け隔てなく、これを行う。そして、大人の男が価値観を見出すのは、男集団の中での存在価値が認められて一目置かれる長老なり酋長になることである。なお、長老なり酋長は世襲制ではないから、我が子がいようがいまいが、そんなことはどうでもよいのである。
 こうして未開の地では、自分の「子孫を残そう」という欲望は男に湧いてこない。一方、女の場合はどうだろうか。赤ちゃんが全然生まれないということになれば寂しさは募るであろうが、ただそれだけのことで、寂しさを他人の赤ちゃんの世話の手助けで紛らせることで癒し、自分の「子孫を残したい」という欲望は、小生は男だから女性の気持ちは分からないが、たぶん湧いてこないのではなかろうか。
 それに対して、文明社会になって財産の私有に大きな価値観を見出すこととなると、共同体社会は木っ端微塵に吹っ飛んでしまい、夫婦からなる家族というものが必然的に形成されるようになって、より財産を増やし守ることに必死となる。そして、これより男は我が息子に財産を増やし守る術を教育しはじめ、安心して任せられる段になるとこれを相続させ、年が老いれば子孫繁栄を願い孫の誕生を願うようになる。ここに、「子孫を残したい」という欲望に根差した義務感が発生し、これが社会全体を縛る掟ともなったのである。今日でも、子供を育て上げてはじめて一人前の大人だと評価されるように、「子孫を残す」ことはどの文明社会においても社会を成立させるための根本的な掟となっているのである。もっとも、これを意識することは全くないのではあるが、文明社会がそうさせているのである。

 我々は文明社会に生きている。であるからして、すべての物事を文明社会に特有の価値観で見てしまう。つまり、歪んだ物差しで物事を見聞きし判断することとなる。そうしたことから、あらゆる生物は「子孫を残す」ことを第一にした行動を取るようにプログラミングされていると思い込んでしまっているのである。また、そうであるから種は生き残ってきていると間違った説明を展開し始める。
 たしかに、理屈で考えると、ヒトという1個体を捉えた場合、その不老不死は有り得ないから、何らかの形で子を作らねば種は即座に途絶えてしまう。種が永続するように「子孫を残す」という原理が必然的に働いている、という考え方になる。
 しかし、これは本質を見ていない。地球上の生命体のなかで圧倒的大多数は単細胞生物である。彼らはどうやって生き延びてきたのであろうか。ここのところを、まず正しく理解しないことには始まらない。
 そこで、ヒトの体とも関わりの深い、真核単細胞生物の細胞内小器官であるミトコンドリアに着目してみよう。そもそものミトコンドリアは単細胞原核生物で、いつしか他の単細胞生物の中に潜り込んで共生をはじめ、ついに合体を果たしたものであり、他の細胞内小器官とは違って自分のDNAを使って生命活動をしている“細胞内細菌”とも言える存在である。当然にして細胞分裂を繰り返し、自己増殖している。
 では、ヒトの体細胞のほとんどすべてにあるミトコンドリアはどうだろう。ミトコンドリアに着目すると、ヒトという動物はヒト・ミトコンドリアの担体として、ヒト・ミトコンドリアが生き続けるために存在するだけの使い捨ての動物(うごくもの)にすぎないとも言える。ミトコンドリアは精子には存在せず、1個の卵子に何万個ものミトコンドリアがいて、受精を引き金にして細胞分裂が始まると同時にミトコンドリアも盛んに分裂を始め、全細胞(赤血球などは除く)にその居を広げていく。そして、その後、メスが発育するに従って卵子が作り始められたら、その中にもミトコンドリアは必然的に入り込んでいく。
 これを別の観点、単細胞生物の増殖・死滅という観点から見てみよう。単細胞生物は生活環境が良くなれば爆発的に数を増やしていき、天文学的な数に増殖しうる。しかし、環境が苛酷になればほとんどが死滅し、ほんのわずかばかりの数になってしまうが全滅することはなく、再び環境が改善されれば大増殖する。これが繰り返されるのが単細胞生物の生き様であり、種が即座に途絶えることは決してない。
 ミトコンドリアだけに注目すれば、ヒトの中に住まうミトコンドリアは、これと同じことを繰り返していると言える。もう一つ別の観点から眺めると、ミトコンドリアは不老不死となる。1個のミトコンドリアが分裂して2個となれば、互いにクローンであり、これが際限なく繰り広げられるのであるから、何年経ってもそのときどきに存在するミトコンドリアは最初のミトコンドリアのクローンであり続けるのであるからして、これを不老不死と呼んで何ら支障ないではないか。
 ちなみに、ヒトの標準体重を60kgとすると、ヒト・ミトコンドリアの総重量は6kgにもなり、最大の微小臓器群ということもできる。そのミトコンドリアの最大の使命はエネルギー産生であり、ヒトの産生するエネルギー総量の95%を占めるという。こうしたことから、先に言ったように、ヒトという動物はヒト・ミトコンドリアの担体として、ヒト・ミトコンドリアが生き続けるために存在するだけの使い捨ての動物(うごくもの)であるとも言えるのである。
 このようにして、地球上の生命体は、基本的に不老不死の生き物で成り立っているのであり、そこでは「子孫を残す」という概念が登場する余地はまったくない。

 完成された生命体である真核単細胞生物は、その後、多細胞化し、脊椎動物、哺乳類、霊長類、ヒトへと姿を変えていく一群が登場した。彼らの生まれ変わりの様の観察を通して、「子孫を残す」行為を取り始めたやに思われてしまうのだが、実際は違う。そのことについての続きを次回に論ずることにしよう。
 → 目的論の落とし穴=子孫を残す(その3)
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