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目的論の落とし穴=子孫を残す(その1)

 哲学の1部門に目的論というものがある。Wikipediaによると次のとおり概説される。
 この世界の「実体・本質的存在が何であるか」を考察する「存在論」に対して、「目的論」は、「人間を含む諸存在が、(究極的に)どこに向かって(何を目指して、何(どのような状態)を達成・実現すべく)存在・活動しているのか」を考察する。したがって、全般的には、前者の「存在論」は世界に対する「静的」(static) な考察という性格が強いのに対して、後者の「目的論」は事物に対する「動的」(dynamic) な考察という性格が強い。
(引用ここまで)
 目的論的思考は、一神教の根本理念である創世と終末があるとする西洋キリスト教社会の思想にすんなり受け入れられる。そして、自明の理として、歴史が一方向に向かって流れていくという直線的世界観を持つのが当然のこととなる。これと正反対にあるのが東洋の基本理念である輪廻転生の観念であり、こちらは始まりもなければ終わりもなく、ただ単に循環を繰り返すというものであり、目的論的な「人間を含む諸存在が、どこに向かって存在・活動しているのか」などというたいそうな考え方はこれっぽっちも持たない。
 自然科学の分野においても、東洋では存在論的スタンスで物を見て科学するのであり、西欧においては目的論的に科学するのであり、これをよしとする。

 西欧における、目的論的に科学した最大の誤りはダーウィンの進化論であり、免疫学の大家・西原克成氏は次のように言っておられる。(注:西原氏がここで言っておられる「目的論」は、Wikipediaの解説とは多少意味合いが異なるが、時間の流れを絡み合わせない場合であっても目的論というものが存在することを念頭において、お読みいただきたい。)
(著:健康は「呼吸」で決まる(1998年 実業之日本社)より抜粋)
 …自己・非自己の免疫学は、実験そのものに誤りがあるわけではないのですが、根本的な考え方が誤っていたのです。それは、主要組織適合抗原が自己と非自己を見分けるために存在すると言う点です。このように擬人化した考え方を「目的論」といいます。
 これは、世の中のすべてのことをうまく運営するために神様が手を下しているという、西洋の根本思想です。自然科学としての医学、生命科学から「目的論」を排除しない限り、「治る免疫学」は生まれません。
 …この目的論は、ヨーロッパにおける2000年のキリスト教に基礎を置く自然神学の立場で科学するというものです。…
 ダーウィンの進化論が自然科学ではなく、欧米の学問の特徴である自然神学の予定調和説(すべては神によって調和するように予定されているとする説)に基づいた、単なる観念論であることがわかります。
 …自然科学は、人間の価値観を排除しなければ法則性を解明することができない分野の学問です。その意味で20世紀は、19世紀のゲーテ、ラマルク、キュビエ、あるいは18世紀のニュートン、ヤング、リンネほどにも「サイエンスとは何か」を深く考えない科学者によってサイエンスが運用された時代であったといえます。これで、今日のライフサイエンスの発達に反比例して、わが国で免疫系の病気がますます増えている理由が理解できたと思います。本書を読んで、自分の頭でしっかり考えることのできる人が一人でも増えることを願っています。
(引用ここまで)

 こうした西欧にあっても、目的論的思考を批判的に捉えている学者もいる。「人類の起源論争」を著したエレイン・モーガン女史はその著の中で、ロジャー・レーウィンの言を次のように紹介している。
 …「二足歩行は何かの準備として、あるいは何かの前適応(のちになって、生活様式の変化などによって重要となる器官や性質が、それ以前にあらかじめ獲得されること)として生じたのではないか?…」というのが、たくさんの研究者たちを魅了した見かただった。
 だがロジャー・レーウィンは1987年に、この類の考えかたを“目的論の落とし穴”にはまった論法だと批判している。つまり、(いずれ完成すれば)将来のある時点で適応的となる特徴が、まだそれを促す環境要因がないうちから進化しはじめるという論法は、間違いだというのだ。それなのに、「私たちの祖先たる類人猿は、ずっとのちの子孫の代に役立つことを予期して、日常的に二足歩行を行えるように練習をはじめた」とでもいいたげな主張が、長いことまかりとおってきた。
 レーウィンは、「これまで人類の起源について書き記した古人類学者で、こうした“目的論の落とし穴”にはまらなかった者は、実質的に一人もいない」と言いきっている。
(引用ここまで)

 現代においては、日本人も“目的論の落とし穴”にはまった思考をすることが多くなってしまった。我々日本人は明治になって「文明開化」という和製漢語が発明され、万人がそれを使うようになったのと時を同じくして「進歩」という言葉に慣れ親しんでしまった。この「進歩」という言葉は江戸時代まではなかった言葉であるのだが、必要に迫られて西欧語を翻訳するに当たり創作された和製漢語である。そして、日本人は、「進歩」なる言葉に何ら疑いを持たなくなった時点から、西欧人と同様に「歴史が一方向に向かって流れていくという直線的世界観を持つ」ようになってしまったのではなかろうか。

 「進化」という言葉も、また同様であり、生物は時代が進むにつれ、より高等化してきているように見えてしまうから、大方の人は“目的論の落とし穴”に易々とはまってしまうのである。なお、ここで“見えてしまう”と言ったが、これはまた別サイドの哲学「認識論」の立場からの物言いであるが、自然科学は当然にして認識論を根本に置かないことには語れないのであり、何かの現象を早とちりして見誤るようなことがあってはならないのである。
 ここからは、目的論の排除に認識論をおりまぜながら、小生の見解を述べることとする。
 たしかに生命の誕生から真核単細胞生物が現われた段階までは「生命体が進化した」という言い方はできようが、客観的に見れば、それは生命体の完成であって、それ以降は単なる多細胞化であり、個々の細胞は何ら「進化」していない。多細胞化が極度に進んだところで、各細胞は初期の真核単細胞生物と何ら変わるものではないのである。単に各細胞がその位置する場所によって特定の遺伝子がいびつに発現し、それぞれの場所にそれぞれの器官を作っただけのことである。
 もっとも、時代が進むにつれて、極度に多細胞化した段階においても真核単細胞生物であるアメーバの類が宿主に寄生し、その後、宿主が寄生物のDNAを取り込んで白血球に姿を変えたといった多少の複雑さは生じてはいるが、細胞体そのものに本質的な変化は起きていないと言ってよい。

 生物は「進化」してきていると絶対的に言われているのであるが、客観的に見れば逆であって、「退化」してきていると言ったほうが当っていよう。生物界で一番進化したのは哺乳類であり、ヒトはその最先端を行っているというのが一般常識だが、これは甚だ疑問である。
 これを遺伝子サイドで見てみよう。哺乳類→霊長類→類人猿→ヒトと順々に分岐していくに従い、順々にビタミンC合成遺伝子の喪失、尿酸酸化酵素の喪失、鋤鼻器(フェロモン匂を感知する器官)の喪失といった「退化」が見られる。これは不用となったから遺伝子に傷が付いても修復されることなく累代にわたって放置されたがために、せっかく前からあった遺伝子がもはや使い物にならなくなって修復不可能となったものである。それに対して、新たに獲得された遺伝子というものは特段見あたらないのである。
 なお、ヒトがおかしな格好をした裸の猿になったのは、分岐したチンパンジーとはまるで違った生活環境に放り出されたと考えるしかない。類人猿だって、他の霊長類の一般的な姿に比べれば、尻尾がないし、手がやたらと長いという実におかしな格好をしているのだが、これも他の霊長類とは違った生活環境で長く暮らしてきたからというほかない。こうした形状変化は「用不用の法則」(通常「用不用説」といわれ、真理ではないと否定されるが、これぞ真理であり、あえて法則と呼ぶ)により、使う物はどんどん生長するし、使わないものはどんどん退化し、痕跡しか残らなくなるのである。そして累代にわたってそうした生活習慣を取り続ければ、これが何らかの形で記憶され次世代にそのまま伝わるようになってしまうのである。
 これらの形状変化を「進化」と呼ぶのはあまりに滑稽であり、遠い将来において地球環境が激変した場合においては、こうした原始的姿から大きく外れた形状をしている生物は死滅する運命にあろう。ただし、ヒトは類人猿や他の霊長類に比べて、その形状は幸いなるかな原始哺乳類の姿を留める“生きた化石”(これを通常「進化」していないという)に先祖帰りしたかのようであり、しぶとく生き残るかもしれない。

 前置きが随分と長くなってしまったが、これより「子孫を残す」という本題のテーマに入りたい。
 ここまで、目的論の排除と認識論的立場から、「進化」はないことを論じてきた。これを踏まえて、以下本題について論ずることしたいが、かなりの長文になりそうであるから、本稿は、ここまでを「その1」とし、その続きは後日の投稿としたいのでご了承いただきたい。
 → 目的論の落とし穴=子孫を残す(その2)

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Author:永築當果

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